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【アラベスク】  第16章 カカオ革命



第2節 手作りの魔力 [9]




 母はテレビの芸能ニュースに釘付けだ。大物女優と若手プロサッカー選手の年の差カップルが破局したとかで、レポーターが騒動を大袈裟に報道している。
「二ヶ月で離婚は早すぎるわよねぇ」
 言いながらゴロンとソファーに寝転がる。その姿はどう見てもいつもの母だ。いつもの、だらしのない、不摂生極まりない母だ。だが、今日の母はそれだけではない。
「ねぇ、いつも通りって、夜中に帰ってきたって事?」
「えぇ? 何?」
 母は相変わらずテレビに視線を向けたまま。
「夜中っていうか、うーん、四時頃くらいかなぁ」
 という事は、帰ってきて三時間ほどという事になる。
 寝ていないのだろうか? それとも寝て、起きたという事になるのだろうか?
「ねぇ、帰ってきてから何やってたの?」
「えっと、お風呂に入ってぇ」
 ほとんど上の空で、それでも適当には答えてくれる。
「それから早朝のテレビショッピング見てぇ」
「ずっと寝てないの?」
「寝てない? あぁ、寝てないわねぇ」
「なんで?」
「なんでぇ?」
 そこで母はようやく美鶴を見た。
「なんでって言われても。美鶴こそなんでそんな事を聞くのよ?」
「なんでって」
 困惑しながら言いよどむ。
「なんでって、だっておかしいじゃん」
「何が?」
「お母さん、この時間はいつもぐっすり熟睡でしょう?」
「そう?」
「そうだよ。帰ってきたらすぐに寝ちゃうじゃん。こんな時間まで起きてる事なんてないしさ。こんな時間に起きてくる事もないし」
「確かにないわね。どうりであんまり見たことのない番組ばっかりだと思ったわ」
 再びリモコンを操作する。
「あ、このアナウンサー久しぶりねぇ。この時間帯だったんだぁ」
 画面の中で、中年の男性がニュースを読んでいる。
「ちょっと白髪が増えたんじゃない?」
「ねぇ、こっちの話聞いてる?」
 マイペースを崩さない相手にやや苛立ちを感じ、美鶴は口を尖らせて声を大きくした。
「何?」
「だから、こんな時間に起きてるなんておかしくないかって言ってるの」
「おかしいかもしれないけど」
 何を怒っているのかさっぱり理解できないと言いたげな視線。
「だからって、アンタにあれこれ言われる筋合いはないわよ」
「そ、それはそうかもしれないけど」
 美鶴はアンパンをかじりながら不満そうな声を出す。
「そうだけど、なんか気持ち悪いじゃん」
「何が?」
「こんな、朝日を浴びて朝から優雅に(くつろ)ぐお母さんなんてさ」
「あら失礼ね。私だって優雅な朝を楽しむ時ぐらいあるわよ」
 ムッとして菓子を頬張る母。
「それとも何? 私に朝日は似合わないとでも?」
 似合いません。
 不審に思いながらもそれ以上は何も言えない美鶴。だが、もう諦めようと残りのアンパンに手を掛けた時、母が相変わらずののんびりした声で言った。
「アンタ、霞流さんと何やってんの?」
 ビクリと肩が震えてしまった。驚いて顔をあげる先で、母は相変わらずテレビ画面を眺めている。(たる)んだ身体をソファーに横たえ、菓子を掴んだ手でボリボリと足を掻く。
「な、何って?」
 動揺しながら美鶴は何とかそう答える。
「何の事?」
「繁華街で何をやってるのかと聞いているのよ」
 今度こそ絶句した。
 誤魔化すべきか。知らぬフリを通すべきか。そもそもなぜその事を知っている? 母はどこまでを知っているのだ? 本当に知っているのか?
 同時にいろんな疑問が沸き上がり、まずどれに対処すればいいのかが判断ができない。言葉の出ない美鶴へ、詩織はチラリと視線を送った。
「あんまり私を見縊(みくび)らないで欲しいなぁ。これでも水商売は長いのよ。今の店にだって、それなりの情報網はあるんだからね」
「じょ、情報網って?」
 警戒しながら言葉を選ぼうとする娘に、母はプッと噴出した。
「アンタが霞流さんと入り込んでる店の事だって、情報として入ってくるって事よ」
 ゴクリと、生唾を飲み込んだ。
 店の事を知っているのだ。
「あの店は完全会員制よ。アンタみたいな未成年が出入りすれば目立って当然。アンタ、そんな事もわかんないの?」
 小馬鹿にするような笑い含めた詩織は、そこまで言うと急に口元の笑みを消した。
「霞流さんはやめておきなさいね」
 テレビの音が、消えたような気がした。
 いや、テレビだけではない。窓を叩く風の音も、冷蔵庫のコンデンサだかコンプレッサだかの音も、エアコンの音も、何もかもが消えたような気がした。
 目の前が少しクラクラした。唇が乾く。きっと、乾燥しているからだ。
「やめろ、って?」
 言われた意味がわからず、美鶴は唖然としたまま聞き返す。詩織は淡々と答える。
「あの人はやめなさい。ロクな噂を聞かない」
「お母さん、知ってるの?」
 それだけを聞くのが精一杯。
「知ってるの?」
「何を?」
「何をって。だから、霞流さんの事を」
 アンパンを持つ手が震える。
「ある程度は知ってるわ」
 徐々に世界の音が戻ってくる。
「繁華街に入り浸ってる事くらいは知っている」
「いつから?」
 いつからだ? 春に、下町のアパートが全焼して霞流邸でお世話になっていた時から、本当は知っていたのか?
「霞流さんの家に居候してた時から知ってたの?」
「うんとねぇ」
 詩織は人差し指を顎に当てて上目遣いで考える。
「あの時はまだ知らなかった、と思うわ」
「じゃあ、いつから?」
「霞流の家を出てからすぐだったかな? あぁ、夏だったと思う」
「どうやって知ったの?」
 霞流の素行が噂となって母の耳にでも届いたのだろうか?
「見たのよ」
「見た?」
「繁華街を歩く霞流慎二を見たの」
 酔った客をタクシーに乗せて見送った直後だった。あれは夏だった。蒸し暑さが滞る真夏の夜、店に戻ろうとした詩織は、暗闇に消える後姿を目撃した。間違いなく霞流慎二だった。







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